畚野信義 様 (元 通信総合研究所長)

下記は、電波研究所/通信総合研究所/情報通信研究機構親ぼく会ホームページに掲載したものです。

追悼-情報通信研究機構初代理事長
長尾 真君

2021年5月27日
畚野 信義

長尾君と私は1955(昭和30)年春京都大学工学部電子工学科に入学した。

長尾君の父上は神官で、当時は俵藤太が大ムカデを退治したという伝説のある官幣大社野洲神社の宮司だった(後に橿原神宮の宮司になられた)。

彼は東海道線の野洲から、私は奈良から奈良電で通学していた。当時早朝の電車はそれほど本数が無かったので何時も京都駅で一緒になり、2回生の時は6番(東山線)、3,4回生と大学院は2番(河原町線)の市電(路面電車)で毎朝隣り合わせに座り通学していた。その間毎日熱心に話し合っていたという訳でもなかったが、彼は私にとってその後もズットいちばん身近な同級生の一人だった。

長尾君は首席で卒業した。がり勉の雰囲気は全く無かったがそれを知った時同級生の誰もが不思議に思わなかった。振り返ってみると彼は何時も同級生と普通に付き合っていたが、やはりその頃から真面目な大人だった。

今年になって(2–3か月前)松本(紘)君(長尾君の2代後の京大総長、私の高校の後輩で、彼が大学院生の頃何時も内之浦の実験で一緒だった。)から電話があり、「家で倒れられた」と言っていた。その後音沙汰がないので寝たきりになり誤嚥性肺炎にでもならなければと心配していた。

5/25の夜に訃報を聞き、翌日電話で奥さんと話した。

一回目は自宅で倒れ、その時はすぐ退院して歩けるようになり、普通に話しもしていたが、血圧が低く時々失神して倒れて危ないので、介護の行き届いた施設に入ったのだが、またそこで倒れて頭を打ち、意識が戻らなかったということだった。

彼は48歳からダイエットをやり、健康に気を付けていて、毎週ゴルフをやったり、比叡山へ歩いて登るなど、喘息で何度も死にかけて運動もしなかった私よりズット長生きすると思っていたのだが。(ある生命保険会社の統計によると、少し太り気味の人の方が平均寿命が長いそうである。何かあった時その方が踏ん張れるそうだ。)思わぬところに伏兵があったと言うか落とし穴があったとしか言いようがない。

長尾君は情報の分野で初めて文化勲章を受けた。

今日の音声自動翻訳、画像認識などの幅広い分野で今日の研究成功(実用化)のゴッドファーザーであり、ひいては最近姦しいビッグデータの走りを主導した先見性に優れた研究者だった。

私が一時社長をしていた国際電気通信基礎技術研究所(ATR)の設立の時代から関わり、ズット指導してくれた。音声自動翻訳では最初文法などによる所謂「ルールベース」を採用して進めていたが、言語には例外が多くウマク行かなかった。その時長尾君が「ウマク行った例を集めてみたらどうか」と言った。この所謂「コーパスベース」が順調に行き、ATRの音声自動翻訳は成功し実用化された。今日世界で進む自動翻訳のルーツは全てATRから出ている。

十数年前私が社長の頃これらの功績でATRから長尾君を日本国際賞に推薦し、受賞した。これが後の文化勲章に繋がったと聴いている。

1980年代、2回の石油ショックから日本がいち早く抜け出した所謂「バブル」の頃、「日本の基礎研究ダダ乗り非難」が欧米諸国から噴き出て来た。「先進国の基礎研究の成果をを使って新製品を開発しボロ儲けをしているにもかかわらず、その補給に貢献しないというものである。

当時私は長年「行政と研究はカルチャーが違う。日本の研究は行政のシステムで行われている。仕組みから根本的な改革の必要がある」と新聞のコラムに連載したり、著書(研究の環境とマネージメント)で主張していた。少しづつ研究の重要性が認識され、科学技術基本法が制定され(1995年)科学技術基本計画が5年ごとに国として策定されるようになったが、世紀が変わった頃、小泉内閣の行政改革の勢いの余波で(実は公務員削減の数合わせのひとつの手段として)国立研究所の改革(法人化)も行われることになった。

先ず法人化の実際の行方には油断がならなかった(通信総合研究所五十年記念誌、歴代所長回顧参照)。それ以上に懸念したのは、電波研究所・通信総合研究所はそれらの前身時代から多くの分野で多数の優秀な研究者を輩出し、それらの成果によって研究所の名前は世界に知られて来た。しかし突然「情報通信研究機構」などと名前が変わるとどこの馬の骨か分からなくなってしまう。最初からハンディキャップなく優秀な研究所(COE)と世界的に認めてもらうには、あの人がトップならと受け止められる人に理事長になって貰うことしかないと思われた。法人化の本格的な発足は丁度長尾君の京大総長の任期の終る直後であった。「もう宮仕えはイヤだ」と渋る長尾君を無理やり説得して初代理事長になって貰えた。発足時のNICTの多くの幹部たちから「期待した効果は十分あった」と聞いている。

あまり人を尊敬しない私も長尾君には一目置いていた。

私も何が突然起こっても不思議でない歳だが、彼との長い付き合いが突然断ち切られ、自分の人生に大きな穴が空いた感じがしている。

電子工学科:1959年卒業記念アルバム(洛友)から
長尾君は後列右から6番目(後列右端は私)

清野研究室(教官3名,卒研生4名)長尾君は左端
長尾君は大学院は前田(憲一)教授の助教授から独立した坂井(利之)研究室に移った。坂井研究室の研究テーマは「音声タイプライター(音声認識)」だった。

2005年6月 台湾工業技術院ICL研究所訪問

2005年7月 南カリフォルニア大訪問

2005年11月 日本国際賞受賞記念シンポジウム
長尾君は左端

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